アドラー心理学は他の思想とは方向性が違うので、けっこう奇抜なイメージがあります。
それでいてシンプルなので、批判や誤解が生まれやすいのも無理はないですよね。
僕が初めてアドラー心理学に出会ったのは、かの有名な「嫌われる勇気」ですが、ホントに最初は「何言ってんだこのジジイ!?」としか思えませんでしたから。笑
でもちゃんと理解するためには、自分の中のモヤモヤとか誤解を解いておかないと!
ということでまず手に取ってみたのが「アドラーをじっくり読む」です。
なんでも、この本は「嫌われる勇気」で生まれてしまった誤解を解いたり、しっかり解説するために書かれたものらしく、今の僕にはピッタリだと思ったのです。
期待を胸に、読んでみた感想。
「やっぱモヤモヤ。誤解解けてるかこれ?」
誤解を解くはずの本ですら、何も解決していないような、そんなすっきりしない気持ちだけを残していきました。
そこで今回は「アドラーをじっくり読む」の前書きで述べられている5つの誤解とそれに対する答えを紹介しながら、「誤解を解くのすら難しいし、そもそも解くってなんだ?」というこの不思議な感覚を味わっていただけたらと思います。
たぶん、これがアドラー心理学の難しさなんだよなー。。
誤解1:すべてが自己責任だ
アドラーの奇抜な考えといえば、例えば「いま不幸なのは、自分が不幸であることを選んだからだ」というものがあります。
(この真意は、「対人関係で傷つくことを避けるために、自分で不幸でいることを選んでいる」ということ)
たしかに、言葉通りに受け取ってしまうと、
「いま不幸なのは、お前がすべて悪い。」みたいに聞こえてしまうかもしれません。
しかしアドラーは、自分の「行為」について、その「選択の」責任は自分にあると言っています。
自分の選択には責任を持たなければなりませんが、選択したことで窮地に陥った人を責めたり、そのような人を自己責任だといって救済しない理由付けにするのは間違っています。
自分自身に責任はないが、自分の選択には責任がある…。どういうこと…?
結局選択したのは「自分自身」であるわけで、ちょっと何を言ってんのかわかんないっすよ。
まあ百歩譲って、「救済しない理由にはならない」ってのは分からないでもないです。
ある人が自分で決めた選択で失敗したとして、その選択をしたツケはしっかりと「ダメージ」として自分の責任になっているはず。だからその人自身を責める理由にも、性格を否定する理由にもならない。
ちゃんと選択の責任は負っているんだから、という。
でも正直、こんな誤解どうでもよくね??というのが率直な感想です。
自己責任論だ!って非難されても、それはアドラー自身に責任があるわけじゃないんだから、べつにいいじゃん。
そもそも誤解自体が誤解なのかどうかもわからないという、モヤモヤなスタートになりましたね。苦笑
誤解2:誰でも何でも成し遂げられるなんて大ウソ
アドラーは、自分に「変わろうという勇気」があれば、自由意志でどんなこともできるといいますが、世の中にはスポーツとか芸術とか、努力じゃどうにもならない領域ってありますよね。
だからちょっと言い過ぎでは?と非難されるのも分かります。
アドラーの主眼は、才能や遺伝などを持ち出し、自分はできないという思い込みが生涯にわたる固定観念になる可能性に警鐘を鳴らすことです。
そうか、、たしかに。
「何ができるかなんて、才能で決まるだろ!!」という意見には、「できないこと」への意識しかないですよね。つまりマイナス思考。
才能がないからできない。だから努力なんてもっぱらごめんだ。
こんな考えの人間には成長の見込みなんてあるわけないですよね。
成長するために向くべきは「可能性」
「できない理由を探す」よりは、「才能なんて関係ない」と考える方がよっぽど合理的なのかもしれません。
人生論としてはためになる内容です。
ただ、これ、誤解の答えになってるんでしょうか?
「誰でも何でも成し遂げられるなんてありえない!」というのは、誤解というよりも、むしろある種の真実だと思うのですが。
こういう考え自体が間違っているのでしょうか、アドラー先生。
誤解3:人生は思いのままになるというポジティブ思考
アドラーは自由意志で人生を変える勇気を持つことをすすめるため、「ポジティブ思考になろう」と言っているように聞こえる人もいるかもしれません。
でもアドラーは、ポジティブになれ!と言っているわけではありません。
なぜなら、ポジティブになれないときが、人生には必ずあるからです。
まわりの環境によって思いのままにならないことだってたくさんあるし、トラウマになることだってあります。
アドラーは、その苦しみに意味を与えることで、生きていくための糧にするのだといいます。
苦しみにとらわれたとしても、生きていかなければなりませんからね。
あまりに抵抗が強ければ鳥は風に押し戻され飛ぶことはできませんが、抵抗があればこそ、飛ぶことができるのです。
苦しみを「鳥が飛ぶための抵抗」に例えているのはさすがだなと思いますが、これって普通にポジティブ思考じゃないですか?笑
苦しみに乗り越えるための意味を与えるという具体性は本当にすばらしいと思います。
でも結局は、「 苦しみは乗り越えるもの!自分を成長させるんだ!! 」という反骨的ポジティブ思考にしか聞こえないのですが。
誤解4:理想論であって、実践的でない
アドラーの考えは従来の考えを覆すものなので、そんなのただの理想論にすぎない!と言う人がいるのも仕方がないでしょう。
でもそういう批判をする人は、ただ「出る杭を打ちたい」だけで、今の持論を否定されるのが嫌だから反射的に言っているだけのようにしか思えません。
嫌われる勇気だけでもじっくり読んでみると、課題の分離とか、一見むずかしそうでも意外と練習したら実践できそうなものもあることに気が付きます。
でも最後の一文が気になりましたね。
真に実践的であるものは、厳しさを伴うものです。
「厳しさを伴う」...。それを「理想論」っていうんじゃないの?と思ってしまいました。
「本当の男は背中で語る…」→「口で言わねえと分かんねえよ!!」
どうもこういう「真に○○であるものは…」みたいな表現には疑問しかありません。
せっかく納得できたのに残念。
誤解5:常識の繰り言に過ぎない
アドラー心理学は常識を言ってるだけだ!なんて意見には同調できませんね。
僕はアドラーの考えは今までにない、すばらしいものだと思っているので。
あれですよ、「真にすばらしい考えは、聞いてる人にとっては当然のことのように聞こえる」んですよ。
(….ん??さっきと話が違うぞ??)
おわりに
なんか岸見先生の本の批判まとめみたいになってしまいましたー。
とりあえず今の感想は、「アドラー心理学って、誤解を解くことすら難しい考えなのかー!」ということです。
誤解を解決するはずの本でも、解決できないなんて、相当奥が深い思想なんですよね。。
(理解力不足もありますが...。)
アドラー心理学についてはまだまだなので、もっといろんな本を読んで実践につなげていきたいです。
今回引用させていただいた「アドラーをじっくり読む」は、「嫌われる勇気」を読んで、よりアドラーの思想について詳しく知りたいという方におすすめです。
難易度としては高めで僕には難解な文章ばかりでしたが、理解を深めるのには役に立ちました。(岸見一郎先生は哲学者ですからね。)
タイトルは「アドラーをじっくり読む」ですが、個人的な見解としては、「アドラーをじっくり読む(ための本とその内容をダイジェストに紹介しながら、本格的に勉強するための準備をする本)」のように感じました。
気になる方はぜひ一度読んでみてください。
コメント
私が気になっているのは、アドラー心理学の信奉者がアドラー心理学に否定的な人、無関心の人に「だからあなたは幸せになれない」と考えたり、時としてその考え方を押し付けたりしようとすることです。
実際、ネットでも「幸せになるためにはアドラー心理学を学ぶべきです」といった主張をしているブログを見かけます。
宗教の本質は、その教えを広げることだと言われますが、その点宗教的な要素を持っているのではないかと。もちろん、自分が好きなものを他人に知らせたいというのは日常的にある話なので、ただ自分がアドラー心理学が好きだというのは構わないと思うのですが、「お前もアドラー心理学を学ぶべきだ。さもないと幸せになれないぞ」というのは話が違う気がします。
また、他人がアドラー心理学を信じないことはその他人の課題であることから、課題の分離という点でも矛盾している気がするのですが、いかがでしょうか。
コメントありがとうございます。
『他人がアドラー心理学を信じないことはその他人の課題であることから、課題の分離という点でも矛盾している気がする』
全くその通りだと思います。
何かと倫理学には宗教的な要素が絡むことが多いですが、倫理は自分の中で消化し昇華するものであって、他人に強要するのは違いますよね。
僕は嫌われる勇気をきっかけにアドラー心理学に興味を持ったものとして、ブログに来てくださった方に分かりやすくご紹介できたらなーという思いで、アドラー関連の記事を書きました。
もし強要しているように聞こえたのであれば、申し訳ないです。